センターニュース No.61

(発行・2006/4/15)「電話相談を受けて」より転載

自分のために決める

被害にあったらどうするかというとき、その反応は様々ですが、とにかく警察へ行く、あるいは、とにかく弁護士に相談する、という人がいます。こうした行動の選択は、いずれにしてもこれから会うはずの警察や弁護士に対して、一定の信頼感を持っていることを意味します。警察には正義があると、多くの善良な人々は漠然と信じていますし、弁護士とは被害にあった相談者の側に立って話を聞き、相談者の利益のためにその専門知識を提供してくれるものだと想像しています。

 警察あるいは弁護士のところに行ったとき、被害者が抱える「ひどい目にあった」というストレートな憤りや打撃が、そのまま正当に受け止められることが、本来あるべき当然の対応です。もちろんそのように扱われて進んでいく事件もあるでしょう。しかし、必ずしもそうとばかりはいえない事態も多くあります。訪れた警察署で、そんなのは事件にならないと一蹴されたり、相談した弁護士に、あなたにも落ち度があるからムリだと断られたりなどということは珍しくありません。信頼と期待を持って行動した被害者は、この予期せぬことで大きなショックを受け、二重の打撃を負います。

 警察や弁護士はこうあるべきというのは大切なことですが、しかし今現在被害を受け、どう行動するかというところに立たされている女性にとって、理想的状況の出現まで待つ時間の余裕はありません。今必要なのは、良い悪いとは別の次元で、現実を現実をとして認識すること、そして、その上で考えることです。自分にとっての利益を考え、自分を守るために必要な選択をすることは、何物にも優先します。

 警察官も弁護士も裁判官も、多くは性被害に対しては偏見を持ち、男の論理で身構えています。そうした中へ飛び込んでいくのであれば、漠然と受身でいては傷つけられるばかりです。状況に対して男の論理で決め付けられたとき、そういう話ではないのだと、あなたは女の事実で状況を組立て直す必要があります。想像と違う対応を受けたとき、その落差に打撃を受け、エネルギーを奪われてしまうのは避けたいことです。また、こうした現実の壁に対して、力を傾けて戦うのも、身体の向きを変えるのも、どちらも自分のために決めればよく、何を選んでもそれは最良の選択です。

センターニュース No.60

(発行・2006/1/15)「電話相談を受けて」より転載

学生の皆さんへのメッセージ

 この数年、インターネットでセンターを知ったという女子学生の方からの問い合わせが増えました。学校の課題としてこのことを調べることになったのでとか、性被害に関連する講義を受け、同じ女性として他人事とは思えず関心を持ったなどの理由で質問が寄せられます。それらの回答に当たる内容は、センターの本「レイプ・クライシス」やニュース紙面で述べてありますので、まず始めにそちらに目を通して頂くのが一番早いと思います。

 学生の皆さんが、強姦を始めとする性暴力の問題に関心を持ち、女性として被害を身近に意識し、考えることは大歓迎ですし、とても大事なことです。考えれば必ず疑問が湧いてくるはずです。なぜ被害は起きるのか、なぜ被害を信じてもらえないのか、なぜ被害者は正当な扱いや充分なサポートが受けられないのか、問題は山ほどあります。 ひとつ注意してほしいことは、性暴力の問題は、女性蔑視を根に持つ問題だということです。そのため、他の犯罪被害と同じに考えても、前述の「なぜ」の答はわかりません。

 女性蔑視と男優位思想は一体のものです。女性は男より一段劣った存在とされ、それを自然の道理のようにして社会が組立てられています。この社会では、女性の身体は彼女自身のものではなく、支配者である自分のもの、と男は思っているわけですから、セックスは支配の一環であり強姦はそのバリエーションです。被害が被害として社会に通じない理由はここにあります。 
 
 性暴力は全ての女性に向けられた攻撃です。女性たちが自分の問題として向き合うことなしには、この問題は解決しません。しかし、それは実際は容易なことではないのです。自分が蔑視され差別を受けているという現実を認識しなければならないため、なるべくならそこは見たくないからです。そして多くの場合、被害にあった気の毒な誰かの問題として囲い込み、自分はその外側から問題を論じ、助ける人のポジションを取ろうとします。そうである限り加害者たちは安泰でいられます。

 もし皆さんが同じ女性として、本当にこの問題を考えようとするなら、教科書に書いてあることや世間の言うことをかき分けて、その下にある問題の本質にせまらなくてはなりません。女性たちがその気になりさえすれば、それはいつでも可能なことです。

センターニュース No.59

(発行・2005/10/15)「電話相談を受けて」より転載

刑事告訴を考えるときに

加害者を法律で罰して欲しいと望む被害者にとって、警察は唯一の窓口です。警察のほうも、近年は、被害者相談のためのホットラインを設けたり、「性被害にあわれた方々へ」などとするメッセージを発信したりしています。

 メッセージの内容は、おおかた「勇気を出して届け出を」とか「ひとりで悩まずご相談ください」というものです。また、そのあとには必ず、あなたの勇気が犯罪をなくすことに繋がりますなどといった、励ましとも脅しともとれる言葉が続いていますが、いずれにしても訴えたい意思のある被害者にとっては、警察が、被害にあったら来てくださいと、意欲的に言ってくれているように感じます。

 訴えることを決めた被害者は、警察を訪れ、加害者を罰して欲しいという思いで事件を伝えます。事情聴取や証拠の提出、被害のあった場所での実況見分や、状況の再現や写真撮影など、必要といわれることにはその度、懸命に応じます。事件とは関係のないプライバシーや性体験などを聞かれたとしても、告訴したからこうして捜査をしてくれているのだと考えます。そのため、協力しなくてはならないと、かなりのことも我慢します。しかし、この時点では、警察は正式に告訴を受理していないことも少なくありません。

 警察は、被害にあったら「届け出を」と勧めていますが「告訴を」とはいっていません。性被害は親告罪ですから、加害者を罰するには、被害を届け出るだけではなく、告訴が必要です。被害者が警察へ行くのは告訴のためですが、警察では、被害者の話を聞き、調べを行い、事件として扱う気になったときにだけ告訴として受け取るのです。

 被害者は、そうとは知らされませんし、そういうことは公にされていませんから、警察に告訴したはずなのに、そのあとの進展がない場合は悩まされます。被害者の訴えがどう扱われ、どうなるのか、本来はきちんと説明されるべきことですが、実際はそれも警察の気持ち次第です。また、そこまでいかないうちに、被害者の話を聞くだけで、これは事件にはならないと帰されたり、あなたのほうが悪いという対応をされるのも珍しいことではありません。どうしたらいいのかと聞かれることもしばしばですが、警察をチェックできる別の機関はないため、決め手になるような対策はないのが現実です。

センターニュース No.59

(発行・2005/10/15)

動き始めた性犯罪防止対策を考える 出所情報の提供・再犯防止教育

性犯罪の再犯防止を目的として、今年6月から、性犯罪者の出所情報の提供が始まりました。具体的には、13歳未満の子どもを対象にした性犯罪(強姦、強盗強姦、強制わいせつ、わいせつ目的の略取・誘拐)受刑者の出所予定日、出所後の居住予定地などの情報を、法務省が警察庁に提供するものです。

 この情報提供制度が始動するきっかけに、昨年11月、奈良市で起きた児童誘拐殺害事件があることは誰もが知るところです。捕まった男は、これまでも多数の子どもに加害行為をしていたことが判明し、性犯罪で二度の逮捕歴がありました。一度目は執行猶予、二度目は懲役3年の実刑を受け服役していました。この事実は、性犯罪者の再犯問題に対する社会的関心を呼び起こし、前歴者情報把握の必要性への意識が急速に高まりました。性犯罪を繰り返す男が野放しにされていなかったらこうした事件は防げたかもしれない、警察は何をしていたんだという世論の流れは、自然ともいえるものでしたが、その流れの中で、「子どもを対象とした性犯罪前歴者の出所情報提供制度」が急激に仕立てられ実施されたことは、再犯防止に真に有効なものなのか、疑問が残ります。この制度を協議する中で、同時に、情報提供を「子どもを対象とした性犯罪前歴者」だけでなく、他の犯罪の前歴者にも拡大することが話し合われており、この9月には、全出所者の8割程度が該当する見込みとされる、出所日の通知制度が始まっています。警察が捜査に便利な情報を手にすることと、実際に犯罪の再犯が防げるのかということには、大きな隔たりがあります。

 提供された、子どもを対象とした性犯罪前歴者の情報をどのように使用するのかについて、警察庁は次のように発表しています。
 「可能な範囲で出所後の居住状況を確認する。転居した場合は出所後の動向を踏まえ、可能な限り転居先の確認に努める。子どもに対する声かけ・つきまといなどが発生している場合は、行為者を特定するために、保有する情報を活用する。犯罪行為があれば検挙等の措置をとり、犯罪に至らなくても行為者に警告することなどで、未然防止に努める。性犯罪が発生した場合には迅速な捜査等のため活用する」。
 居住予定地の地域住民などへの情報開示はありません。居住地を管轄する警察署が、居住状況の確認と、不審な行動などに注意をはらうというものです。情報は、起きてしまった事件の捜査に役立ち、警察の検挙率を上げることに貢献することはたしかでしょう。しかし、肝心の再犯を防止する効果はどのくらいあるのでしょうか。現住所を把握することひとつとっても、自主的申告に頼るのか別の方策をとるのか、転居を繰り返す場合きちんとそれを追っていけるのか、また、行動に注意を払うといっても、性犯罪の問題に対する研修を積んだ人材による監視体制でなければ、適切な対処を期待できず、どこまでコストをかける覚悟があるのかについては、何も示されていません。逆に、出所者の社会復帰の妨げになるとか、明確な被害がない事案に力を入れすぎて本来の業務が手薄になる恐れなどをあげ、消極的姿勢をほのめかしています。

 性犯罪前歴者には、動向をチェックされているということが、犯罪の抑止力になるという説がありますが、効果を証明する報告は見たことがありません。逆に、今年5月、東京で、保護観察中の男が、未成年女性を監禁していて逮捕されたことは記憶に新しいことです。更に別の複数の女性への同様の犯行も判明し再逮捕されています。2年前、保護観察をつけられることになった事件も同様の犯罪でした。現実は希望的観測に合わせてはくれません。
再犯防止を考えるために重要なことは、日本では性犯罪が軽んじられている事実を、認識することです。殺されれば凶悪犯罪といわれますが、そうでなければ、例えば子どもへの加害行為は「いたずら」という、楽しむ男たちの言語が当てられています。こうした社会認識の中で実行される性犯罪に、どれほどの罪悪感や悔悛が生まれるでしょうか。刑法も、性犯罪に対する罪は、他の犯罪に比べて著しく軽いものです。強盗が下限を5年以上の有期懲役とするのに対し、強姦は3年以上の有期懲役です。強制わいせつ罪の多くは執行猶予がつきます。この社会認識を変えることこそ先決です。

アメリカの動き

 性犯罪前歴者の再犯防止の問題が論じられるとき必ず話題に上るものに、1996年5月に連邦法となったメーガン法があります。メーガン法は、1994年にニュージャージー州で、当時7才の少女メーガンが、近くに住む幼児虐待の前科のある男に殺害された事件をきっかけに、性犯罪前歴者の情報公開を求める運動が起こされ、同年ニュージャージー州で成立し、その後全米に拡大しました。内容は州によって多少異なりますが、登録された性犯罪前歴者の情報は写真と共にインターネットで公開され、市民が自由に検索することができます。日本からも、インターネット環境があれば見ることが可能です。また、凶悪な性犯罪前歴者が引越してきた場合は、州政府により近隣の住民たちに警告がなされます。 もう一つは、性犯罪前歴者にGPS監視装置の装着を義務付け、追跡・監視する方法があります。保護観察や仮釈放中ではすでに多くの州が実施していますが、今年に入って、4つの州――フロリダ、ミズーリ、オハイオ、オクラホマ――が一部の性犯罪者に対し、生涯、GPSで監視し続けることを義務づける法案を可決しました。生涯監視の法案は、他のいくつかの州でも可決・制定の見通しが伝えられています。

守るべきものは何なのか

 これらアメリカが進めている対策に対して、犯罪者の人権問題がよくいわれます。女性の人権を認めずモノとして扱い、中には命も奪った性犯罪者の人権を、予測される更なる犠牲者・死亡者の人権の上に掲げるのが正当なのか、議論すべきです。監視では問題は解決しないから反対だという人もいます。ならば、理想の対策を待つその間にも増え続ける犠牲者に向かって、どう責任を取る決意があるのでしょうか。明日命を奪われるのは自分以外の誰かだと、誰に保証されたというのでしょうか。私たちは被害を最大限食い止めるために何ができるのか、守るべきものは何なのか、常に現実を見据えて考えてゆかなければならないと痛感します。まずは、日本社会の性犯罪に対する軽んじた認識と偏見を改め、社会全体が問題と真剣に向き合うことです。

 また、忘れてならないのは、警察に捕らえられた事件だけが性犯罪なのではないという事実です。捕らえられ、法で裁かれて受刑者となる加害者は、ほんの氷山の一角です。犯罪は身近なところで日々繰り返されています。

 性犯罪の根本は、男の優位思想と、女性をひとりの人間とみなさない文化にあります。文化に後押しされた犯罪は減りません。問題の本質を正しく捉えることが対策のための第一歩です。

刑務所での再犯防止教育

 今回、警察への出所情報の提供と併せて、刑務所内の再犯防止教育が義務化されました。研究会を立ち上げ、有効な再犯防止教育のプログラムを今年中に策定の予定とされてます。

 性犯罪者の再犯防止教育の効果について、カリフォルニア州で行なわれている認知行動療法の研究報告があります。研究は、刑務所内での再犯防止教育を受けた犯罪者グループと受けなかったグループを8年間追跡し、再犯率を調べた結果、両グループに統計的に有意な差は認められなかったことを報告しています(Marques et al.,2005)。

 有効な矯正プログラムの実現には、問題の本質を正しく捉えることが不可欠です。凶悪な性犯罪が報じられるとき、よく目にするものに、加害者の不幸な生い立ちや家族の問題、イジメなどのつらい体験や劣等感の話があります。奈良市の事件もこれらの内容が挙げられており、弁護士は「その環境が生育に与えた心理的影響を専門家が調べ、犯行との関連をあきらかにして量刑の判断材料にする情状鑑定を請求する」としています。こうした対応は必ずといっていいほど見られます。しかし、性犯罪の原因を、環境やイジメや劣等感にもっていこうとするのでは、問題の本質と離れるばかりです。

 加害者が犯行を実行するのは、そうしたいから、楽しいからするのです。百パーセントの自己の楽しみの追求にエネルギーを傾けたに過ぎません。人々は、そのことは知りたくありません。本人も認めたくないので、捕まると、どうして自分がそういうことをしたのか、なぜ繰り返すのかわからないと述べる加害者は大勢います。

 性犯罪は特別な男が特別な事情で引き起こすのではありません。女は男の思いどおりになるものという、男の根深い妄想と、それを許容し実現を援護する社会の中に犯罪の根本があります。加害者の住居から決まって発見される大量のポルノの類は、彼らが簡単に社会から入手したものです。それらは手口を示唆し、彼らの思考を強化し、共感するメッセージを流しています。再犯防止に必要なのは、楽しいことをやめない男と、楽しみの応援を社会が担っているという事実を、はじめに正確に認識することです。

センターニュース No.58

(発行・2005/4/15)「電話相談を受けて」より転載

家族や周囲に知られずに訴えられるか

加害者を訴えたいが、家族や周囲に知られずに訴えることはできないかと尋ねられることがあります。

 まず始めに「訴える」という行為には二種類あります。ひとつは、警察に犯罪事実を告げ、加害者を罰して欲しいと意思表示することで、これを「告訴」といいます。もうひとつは、加害者に対して損害賠償を請求するため、民事的に訴えを起こすことで、これは「提訴」といいます。

 被害者の年齢が未成年(20歳未満)の場合は、本人ひとりでは告訴や提訴をすることはできません。親権者である父母、親権者がいないときは後見人が必要ですので、未成年者が家族に知られずに訴えるということは、事実上不可能といえます。

 成人している人が警察に告訴するという場合は、被害のことを家族や周囲には知られたくないという要望を、予め伝えることができます。基本的には、加害者を告訴するということは、警察にその事件の捜査を求めるということです。捜査には、事件の起きたところの実況見分が必ずありますし、必要と思える人の事情聴取も行なうでしょう。被害者の要望が叶うかどうかは、被害の起きた場所や状況、加害者が罪を認めているか否かや、捜査に当たる人の考え方で大きく変わってくるでしょう。例えば、被害者は、家族とは遠く離れて生活していて被害にあったという場合、遠方の家族にわざわざ事件を伝えて事情を聞く必要はないと判断されれば、警察によって知らされるということはなくて済むはずです。

 もうひとつは、加害者が弁護士を頼むか、そうでなくても、事件が起訴されれば必ず弁護人がつきます。この弁護人が弁護活動のためにどう動くかについては予測できないことです。良識ある判断を望むほかありません。
損害賠償を請求する民事裁判では、訴えた原告(被害者)と、訴えられた被告(加害者)との争いですので、加害者とその弁護人が、どういう行動をとるかというところが問題になります。これも、被害の状況と、その人たちの意識や事情によって異なるでしょう。

 裁判は公開が原則ですが、申し立てをして裁判官が認めれば、名前は仮名を使用したり、刑事裁判は非公開にしてもらうこともできます。

センターニュース No.57

(発行・2004/12/15)「電話相談を受けて」より転載

「自分も悪かった」と思うとき

センターの電話相談のゆるぎない基盤は、「あなたは悪くない、被害にあったのはあなたのせいではない」ということです。

 しかし、社会では、被害の話を聞いたとき「でもそれは彼女のほうも悪いんじゃないか」という反応をする人は少なくありません。そして、被害者自身も「被害にあったのは、自分にも悪いところがあったから」と思っていることがあります。

 そう思っている被害者に対して「あなたは悪くない」と伝えたとき、それで気持ちが楽になったり安心したという人はたくさんいます。しかし、中には「やはり、自分も悪かったのです」と、このことにとらわれている人もいます。そして、社会から責められる上に自分で自分を責めています。このとらわれの元はどこにあるのでしょう。

 自分も悪かったと言っているその内容とは、例えば、あのときもっと早く家に帰ればよかったとか、誘いを断ればよかったとかいうものです。このように、あのときこうすればよかったとか、こうしなければよかったと思うことは、日常の様々な場面で誰にでもある、当り前の感情です。あなたは悪くないというのは、この気持ちを否定しているのではありません。出来事に対して「こうしなければよかった(つまり、そうした自分が悪かった)」と、何かを悔いることは、人間の素直で自然な気持ちであり、これは犯罪の原因とは全く無関係なものです。

 こうした気持ちは、どこまでも個人のものですから、そう思うのも思わないのも自由であり、自分のコントロール下にあるものです。人に判断されて押し付けられるものではありません。それを、社会のいう「被害者のほうも悪い」という犯罪の責任のすり替えに結びつけてしまうところに間違いがあります。混同しないことが大事です。

「被害者のほうも悪い」というのに対して「自分も悪かった」と被害者が言ったとき、共通のことを話しているかのように錯覚しがちですが、前者は加害者擁護と犯罪の容認を意味しており、後者は個人の自然な気持ちの動きを言ったもので、中味は全く別のものです。別のものは別に、はっきり分けて考えれば間違いがありません。
 もし、身近に、被害にあったのは自分も悪かったと、自分を責めている人がいたら、ぜひこのことを伝えてください。

センターニュース No.56

(発行・2004/8/15)「電話相談を受けて」より転載

自分のための選択

 被害にあったのですがどうしたらいいでしょうか…と、答を求められることがあります。「こうすればいい」という答が何かあるはずだと、期待することもあるかもしれません。しかし、被害にあったらこうしたらいいとか、こうすべきというような、決まったものはありません。

 センターにできることは、話を聞くことと、必要な情報を提供しながら相談者と一緒に考えることです。
どうするのがいいのかは、それぞれの状況で違うものです。
はっきりしていることは、被害者は何をしてもいいし、何もしなくてもいいということです。
いずれの場合も、自分のために、自分の気持ちに沿って決めることが大事です。

 一般に、誰かに被害を打ち明けたとき、こうしたらいいとか、こうしなさいと言われることはよくあります。その内容が、本人の気持ちに合っているときは、助けや力になりますが、そうでないときは、指図や圧力になってしまいます。

 例えば、被害にあったら病院へ行けばいいと言われた場合、緊急な対処を要するときは別として、何のために行くのかがはっきりしないうちに行っても、本人の利益に繋がりません。性感染症の心配に対しては、検査には適切な時期がありますので、早ければいいというわけではありません。訴える意思がある場合では、診断書を取っておくことは有益ですが、そうした対応は、現在のところその場の医療者の考え方に左右されるため、病院によってまちまちです。病院へは、プライバシーを話す負担についてと、自分が何を必要としているのかについて、ゆっくり考えた上で行くのがいいでしょう。

 被害にあったら警察に行ったほうがいいと、助言されることもあります。訴えたいと思う場合には、背中を押してもらう効果がありますが、そうでない場合は、迷ったり無理をしたりして悩みが増えます。警察に行けば犯人を罰してくれるはずというイメージが、世の中にあるのはたしかです。しかし、性暴力の被害は、まず、警察官が考える「正当」な被害者であるか否かの点検にさらされますから、それに対応する体力・気力が必要になります。

 何かをするのもしないのも、現実と直面するのは被害者自身です。エネルギーを有効に使えるよう、自分自身で納得して選択できることが大切です。

センターニュース No.55

(発行・2004/5/15)「電話相談を受けて」より転載

直接交渉での賠償請求

被害に対して、被害者と加害者が直接交渉をすることにより、示談という形で決着をつけることがあります。 

 示談にするということは、加害者が被害者に、双方が合意した額の損害賠償金を支払い、被害者は以後事件に関しては責任を問わないことを約束するもので、民法上の和解契約に当ります。これは、損害賠償を請求したい場合、民事裁判に訴えるよりも、時間や労力の面で、被害者の負担は少なくてすむ利点があります。

 こうした直接交渉は、被害者側が弁護士を代理人に立てるなどして行動を起こすこともあるでしょうし、加害者側が話をもちかけてくる場合もあるでしょう。(警察に告訴後、示談をもちかけられた場合については、ニュース41号に掲載の『告訴後「示談」をもちかけられたら』を参照してください。)

 いずれの場合でも、示談は、損害賠償金の額の決定が交渉の中心となりますから、それが一体、いくらならいいのか、あるいは、いわゆる相場というものがあるのかどうかと、被害者は悩まされます。被害者にとっては、いかなる高額な金額であっても、それで気 が済むという問題ではないことは言うまでもありません。そうした中で、実際的な賠償の額については、被害者の気持ちの他に、様々な要素が影響してきます。例えば、加害者の贖罪(しょくざい)意識の度合や、訴えられたくないなど、示談の成立を必要とする事情がどれだけあるかや、現実的な支払い能力(収入や資産状況)などです。また、直接交渉と同一には考えられませんが、参考になるものとして、新聞等に報じられる性暴力被害の民事裁判の判決があります。勝訴のときの賠償額は、数十万から数百万の単位が比較的多く見受けられます。

 示談書を取り交わすときは、賠償金は示談成立と引き換えに全額を受け取る形にするのが最良の方法です。そうでないと、後で支払いが約束どおりに行なわれない場合、示談書には強制力がないため、支払わせるのには改めて裁判を起こさなければなりません。

 もし、やむをえず分割に応じる場合は、示談書の作成は公証役場に行き、公正証書にしておきます。そうすると支払いが不履行のときには、裁判をしなくても強制執行が可能になります。

センターニュース No.54

(発行・2003/12/15)「電話相談を受けて」より転載

夫や恋人からの強姦

ドメスティック・バイオレンス(DV)という言葉が一般に使われるようになり、ようやく夫や恋人からの暴力が社会的に被害として認知されてきました。
内閣府は、2002年に「配偶者等からの暴力に関する調査」―全国20歳以上の男女4500人が対象。回答は3322人(女性1802人・男性1520人)―を実施しており、その結果、女性の回答者中、〈身体に対する暴行をうけた〉は15・5%、〈恐怖を感じるような脅迫をうけた〉は5・6%、〈性的な行為の強要をうけた〉は9・0%という報告が出ています。この数字が即、女性の被害の実態を写していると受け取れるものではないにしても、問題に対して公的調査が行なわれ、被害が目に見える形で示されたことは確かです。

 こうした被害のうち、身体的暴力や脅迫のような精神的暴力は、比較的被害として受け止められやすいのですが、夫や恋人からの性行為の強要については、それが性的暴力であり、強姦なのだという理解には結びついていないのが現状です。
見知らぬ男からの性行為の強要は被害だとされても、夫や恋人からの性行為の強要は、被害とは思われていません。
しかし、たとえ夫や恋人からでも、強要される性行為は強姦です。
女性にとっては同じ被害が、加害者が誰かによって、被害と認められなくなってしまうのはなぜでしょうか。

 その土壌には、この社会に根付いている「女役割」があります。
妻であれば、家事や育児をすること、夫の機嫌を取ることは当然のこととされています。そして、夫の性的要求を満たしていくことも妻の当然の役割なのです。更に、この役割をうまくこなしていくことが女性としての評価に繋げられています。これは、妻と呼ばれていようとそうでなかろうと、男女がカップルになれば関係性は同じことです。
 そもそも「女役割」とは、男社会が女性に対してその立場や行動を規定し、都合良く操作するためのシステムです。 この巧妙な支配構造の中では、夫や恋人からの性的強要は「女役割」のもとに抑えこまれ、ないことになってしまうのです。加害者が誰かによって、同じことが被害だったり被害でなくなったりする理由はここにあります。
 「女役割」の問題を捉えることが、女性への暴力全体の理解に不可欠です。

センターニュース No.52

(発行・2003/4/15)「電話相談を受けて」より転載

被害者支援とは(2)

前号で、被害者を支援するのは、何か特別な行動をすることばかりではなく、一人ひとりが身近なところで、加害者に利用されないために「何もしないこと」も、大きな被害者支援に繋がることを述べました。知らず知らず加害者の側に立ってしまわないために、強姦や性暴力の問題は、自分たち女性全体の問題なのだという認識を持つことが大切です。
 なぜ女性全体の問題なのかは、強姦が起きている社会背景を見ればわかります。強姦や性暴力の根本にあるのは、女性蔑視です。つまり「女は男より下の立場だ」、「男の思い通りにするのが女の生き方だ」という、男優位の思想です。これは社会規範となり、女と男の立場を規定しています。その本質は公然とはびこるポルノ文化が象徴しています。こうした性差別社会の仕組が、強姦を容認し続けているのです。
 女性なら誰も皆等しく、この人権侵害に晒されています。性差別社会の中にあって、差別される女性と差別されない女性という分け方はありえません。同様に、被害にあった人とあわない人という、別の立場もないのです。この問題の前には、女性は皆同じ立場に立たされています。「彼女の被害」は「女性たちの被害」に他なりません。
 しかし、自分は別の立場にいると思うと、女性だから被害にあうという基本的なことが見失われてしまい、男女間の個別の問題に見えてしまいます。そうすると被害の事実を受止めるよりも、その個別の状況に関心が向きます。加害者を知っている場合は、そっちの話も聞いた上でなければ判らないと思ってしまいます。加害者が何を言うか、本当は誰もが分っていることなのに、それに耳を傾けるというのは、加害者の立場に取り込まれていることです。
 また、別の立場という線引きからは、被害にあった人とそれを助けてあげる人という意識が生まれます。すると何かしてあげなくてはと焦ったり、何もできないからと無力感に襲われるなど自分の悩みで押し潰されます。更に、助けてあげる人と助けられる人の間には、一定の力関係が発生してきます。そこには、圧力とコントロールの力が潜んでいます。こうしたことは、エネルギーの使い方を間違っているばかりか、どちらにも不利益になります。
 被害者を支援するためには、常に被害の根本に目を向けることが大切です。